« 国際女性デー | トップページ | エヴェレスト 神々の山嶺 »

2016.03.18

しくじり先生

 なめとこ山通信 45

 3月まで勤めた学校の最後の授業で、「しくじり先生」というのをしました。その時は原稿を作らなかったのだけれど、「なめとこ山通信」のネタもなく締め切りも迫ってくるなかで、そうだ、これを文章にしよう!と安易にまとめたものが、以下の文章です。
 まぁ、付き合いの長い方には今さらな自分の過去をつらつらと並べただけです。が、話したようで話していなかった人からは、「そんなことがあったんですね」と、割りと反響もいただいたので、調子に乗ってここにも載せてみました。

 めっちゃ長いです。スマホで動作確認していませんから、パソコン画面でご覧になるのをお薦めします。リンクも貼ってみました。

 では、なめとこ山の 「しくじり先生」〜私はこんなふうに生きてきた〜 始まり始まり。

 

 丙午 この字を何と読むか、皆さん読めますか。はい。「ひのえうま」と読みます。今年の干支が申(さる)ということを大抵の人は知っていると思いますが、詳しく言うなら今年は丙申(ひのえさる)の年です。干支(えと)というのは、本来は十干十二支の組み合わせのことを言います。ただ、私たちが意識するのは子・丑・虎・卯といった十二支の方ばかりで、普通は十干なんて考えませんね。十干十二支は60年のサイクルで一周します。私の生年は1967年ですが、1月生まれなので66年生まれの学年です。そして1966年が、丙午の年に当たるのです。…それで?と思う人もいるでしょうが、丙午生まれに関しては江戸時代から「丙午生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める」という迷信があり、実際、昭和になった66年にも、その迷信のためか出生率がガクンと下がったのです。つまり、66年だけ一時的に人口が減るのです。それはどういうことか。競争相手が少ない、ということです。たぶん、そのおかげで、私はすこぶる競争倍率の低い高校入試を経験し、希望通りの都立高校に入学できたのでした。しかし、実力が伴わなかったのと、そもそも性格がのんびりしていたこと?で、成績は振るわず、にもかかわらず勉強もせずに部活(水泳部)に明け暮れていたという、そんな高校時代を過ごしてしまったような気がします。

 お寺 私の出発点を語る上でもう一つ挙げなくてはならないこと、それは、岩手出身の父の実家がお寺ということです。学生時代は、夏休みと正月は毎年岩手で過ごし、お寺の手伝いをしていました。父が住職を継いだのは、私が高校生の頃だったでしょうか。しかし父は東京で仕事をしていましたから、岩手には留守番をおいて、葬式などの時に岩手へ行くという二重生活を当時はしていました。私には年子の兄がいて、やがて父の後は兄が寺を継ぐことになります。私にとって父の郷里の岩手のお寺は、何かあったら帰れるところ、という存在(逃げ場所?)でもあったのです。高校で勉強を怠けた私は結局二浪したのですが、二浪した年は岩手の寺の留守番として過ごしました。二浪して二十歳になって、合格したのは駒澤大学でした。「東大に行けないなら駒澤」と言われたのは、父の勤め先が駒澤大学だったからというせいでもありました。とにかく、二十歳になってようやく私は、大学生になったのでした。

 駒澤時代=水平旅行時代 駒澤大学に入学して、なんとなく、なんだかなぁ〜と思っていた私は、あまり友人も作らず、その代わり、さすがにわりと勉強をしました。また、アルバイトで貯めたお金は一人旅の資金にしました。その頃にたぶん、冒険家の植村直己や、写真家の星野道夫といった人の生き方に憧れ、自分も知らない世界を旅してみたいと思うようになったのです。また、大学時代は就職活動もせず、大学に残って大学院へと進みました。院生の時に、駒沢女子高等学校の講師の仕事をもらい、5年間、女子校の教師をしました。なので、自分の20代は言ってみれば、駒沢時代というわけです。旅行は、海を見に行こうと思って自転車で日本海へ抜けた小旅行が始まりで、その後はバイクで日本一周もしましたし、中国ニュージーランド自転車旅行カナダネパール・トレッキングアラスカ・キャンプの旅モンゴル・馬の旅、南米チリ・パタゴニアへの旅と、とにかく春休み・夏休みにはあちこち旅に出ていました。特に印象深かったのは95年パタゴニアへの旅行で、そこで知り合い一緒に夢を語りながら冒険をしたジュロームというフランス人から、帰国後に葉書をもらったのですが、そこにはこんな言葉が書いてありました。

Paine18

Life is sometime rather tough,but we ought to strive in order to achieve one’s wishes and dreams.(人生はしばしば、どちらかというとしんどいよね。けど僕らは、自分の夢や希望を叶えるために、頑張らないといけないよね。)

 当時私は、27,8歳だったと思います。院は修了して、駒女での仕事を続けていましたが、専任になれるのでもなく、さてこの先どうしようと考えてもいた時でした。学校の教員になろうと思ったのは、当時話題になっていた中国残留邦人のような人達に、日本語を教えるくらいなら自分にもできるかなと思ったのと、やはりちょっとでも学んだ文学の魅力を人に伝えたいという思いがあったからでした。なんだかな〜と思って入学した駒澤大学ではありましたが、文学部で出会った恩師、片岡先生からは、文学の、面白いだけではない奥深さを学ぶことができました。「文学とは批判精神である」という片岡先生の言葉が、私の文学への情熱を支えていました。しかし、一方で、ジュロームから贈られた言葉を眺めつつ、また一方では、専任になれない女子校での仕事に見切りをつけてしまった私は、駒女の講師を辞めてしまったのでした。そして、アルバイトしながらの一人暮らしを始めました。29歳の頃でした。その時、30歳になる前に何をすべきかと真面目に考えて、私は、山に登ろうと思いました。 すべての高い山に登れ 日本には3000m以上の山が14座あるのですが、そのすべてに、その年登ってみようと思い、そしてそれを実行したのです。以来、私は山登りに夢中になりました。

 アルバイト・講師時代=垂直移動時代 そういう訳で、30代の私は山登りに明け暮れました。もちろん、毎日山に出かけていたのではありませんが、夏山から冬山、日本の山から海外の山へも挑戦するようになったのです。アルバイトは、空調工、出版社でのベルトコンベア上の梱包作業、焼き鳥屋の厨房など、転々としました。その時、都立学校教員をしていた友人が見かねて、特別支援学校(当時は養護学校)での講師の仕事を紹介してくれ、以来、都立学校の講師をすることができるようになりました。養護学校や定時制高校など、約6年間で計13校の学校で(短いところは本当に数週間、長く続いた学校はわりと何年もの間)仕事をいただくことになりました。そうして、夏休み・春休みには、山に登りに出かけたのでした。「すべての高い山に登れ」計画は、海外版として、セブンサミッツへの挑戦に変わりました。それは、尊敬する植村直己が抱いていた、七大陸全ての最高峰に登るという夢でもあります。彼は、南極大陸最高峰への挑戦のステップとして、厳冬期のマッキンリー山登頂を果たし、しかしその下山途中に遭難してしまったのでした。エベレストや、南極最高峰には登れなくても、世界には自分にも登れる山があるかもしれない。そう思って、ヨーロッパのモンブランに登り、アフリカのキリマンジャロに登り、そして私は南米最高峰であるアコンカグアに挑戦したのです。2002年の冬のことでした。

Aco227

 しかし、アコンカグア登山は失敗でした。5000mを越えるキャンプ地に雪のために停泊していた私は、高所ではとにかく大量の水分を摂取しなくてはいけないという基本的なことも知らずに過ごしていたため、いざ歩き出そうとした時にはもう荷物も背負えない状態になっていました。その時は、これでもう終わりか…と思いました。幸い、近くにいた山岳ガイドに助けてもらい、3000m地点の救護キャンプまで運ばれ、それからさらにヘリ搬送、さらにさらに名前も知らない町まで車で運ばれて入院までしたのです。その後、なんとか帰国はできましたが、すぐに始まった学校へ出勤するのに、どうも指先が痺れていてネクタイが上手く結べません。これは凍傷か?と思っていたら、やがて頭も痛くなってきて、仕方なく病院で検査をしてみると、なんと即入院、そして手術ということを言い渡されてしまいました。私の頭の中に、どうやら何かができているらしいのです。はじめは、脳腫瘍と診断されました。しかし、入院して検査を続けると、そうではないかもしれないことがわかってきました。それでも私は、自分の頭の中で何が起きているのかを知りたくて、病院の先生とも相談して、手術を決行してもらったのでした。開頭手術でした。私の頭からは、ゴルフボール大くらいの血の塊がとれましたが、腫瘍ではありませんでした。正式な病名は、なんとかかんとか血栓(基本的には脳内出血)で、高所登山も原因しているだろうということでした。手術をしたことで学校を休んでしまい、多くの方々に迷惑とご心配をかけてしまいました。特に、その時にはもう岩手のお寺で暮らしていた父と母には、本当に大変な心配をさせてしまったと、後悔先に立たずです。この、アコンカグア登山の失敗、開頭手術で、私が痛感したことが三つあります。

 1.親不孝は取り返しがつかない 心配をかけた母は、岩手で体調を悪くしていたので、私の手術の時にも東京へは出てこられませんでした。そして、それから1年ちょっとで急激に身体を弱くしてしまい、あっと言う間に亡くなってしまったのでした。本当に、自分があんなに心配をかけたからだと、今でも悔やんでも悔やみきれません。その頃はまだ結婚も、まともな就職さえしていない自分でしたから、何一つ親孝行ができないうちに、母は逝ってしまったのでした。

 2.身体に(できるなら)メスを入れないこと 開頭手術をして、その後私はてんかんの発作を起こすことがありました。それは、術前に医師からも言われていたことなのですが、私は、病気とは、切って貼って治るもの、と勘違いしていました。しかしそうではありませんでした。生きていることとはすなわち、不可逆なことなのです。ロボットは、部品を交換したり電池を替えたりすれば元通りに動きます。しかし人間は違うのです。身体を切れば、後々まで痛みや傷が残ります。綺麗に治ったとしても、それは元に戻ったのではなくて、新しく生まれ変わっているということなのです。そんな単純なことを、私は自分の体験として学びました。そしてそのおかげで、怪我や病気で苦しんでいる人の様々な痛みにも、少しは思いやれるようになったのではないかと思っています。とにかく、発作を起こすようになったこと、そして母が亡くなってしまったこともあって、私は岩手に帰ろうと思い、学校講師の仕事を全て辞めてしまいました。

 3.仕事を離れてしまうと、無職ってけっこうきつい 駒女を辞め、アルバイトを転々とした時代にも、バイトの合間で仕事をしていない時はありましたが、そもそも山に登るためにバイトをしていたのですから、仕事をしていない時は出かけていたりするものです。しかし、少し長く続けた講師の仕事を辞めてしまって、ただ寺の手伝いをしているだけの生活では、あぁこれではいけないなと、さすがに思えてきたのでした。生活ができていても、仕事に就いていないということは、精神を不健康にするのです。さすがに、そういう年齢でした。1年間岩手にいて、私はすぐまた東京の家に戻ってきました。しかし、すぐに仕事に就けるわけもなく、今何をするべきだろうかと考えて、考えて、私はまたアコンカグアへ出かけていました。2回目の登山は、倒れたところから下山し直そうというわけで登りに行ったようなものです。自分の足で下山できなかった山は、アコンカグアが初めてだったのです。それが2005年のことでした。そしてもう一回、2006年にも登りに行って、ようやく登頂を果たしてきました。そういうところはわりと拘り続けていたのです。さらに、2006年には、マッキンリー山(今はデナリという山名に正式に変更)にも登ることができました。それは、大蔵喜福という、毎年気象観測のためにマッキンリーに登っている方の登山隊に参加することができたからです。セブンサミッツを考えていた時から、いつかはマッキンリーと思っていて、しかしそれにはどうしたらマッキンリーに登れるだろうかと考えて、大蔵隊のことを調べてもいたのでした。

Denali042

 夢を育てよう 尊敬する人が消息を絶ったマッキンリーという山は、私にとって、憧れの山でもありました。アラスカでキャンプをした20代の時に、その山容を間近に見ることができました。それは、今まで見たこともない、大きな白い塊でした。実際、麓(裾野)から山頂を見上げる標高差は、どんな8000m級の山よりも大きく、世界一大きな山ということが言えます。(8000mの山々は、山裾自体が高所なので、見上げる標高差にするとマッキンリーの方が距離があるのです。)発作で倒れる日々があったり、仕事から離れてしまっていても、いつかはマッキンリーという思いで大蔵さんに連絡を取り、念願叶っての登頂となったのでした。人の夢とは、必ずしも叶えられるものではないかもしれません。しかし、心の中で強く持ち続けていて、それを実現するにはどうしたら良いだろうかと工夫もしていけば、自分なりに夢を育てていくことはできるのです。垂直移動の登山の時代であった私の30代は、マッキンリー登山で一区切りを打ったのでした。

Jmt115

 ところで、私にとって激動の30代の最後に、ちょっとした人生の転換点が訪れました。山仲間を通じて知り合った女性と、結婚したことです。彼女も私と同じように、派遣のOLをしてはお金を貯め、資金ができれば旅に出るという、ちょっと変わった人でした。2005年、私が、シェラネバダ山脈にある約340kmものロング・トレイルを歩くために一ヶ月アメリカに行っている間、彼女は家の留守番をしてくれました。帰国して、私は無職でしたが、彼女の実家の九州へ、結婚の挨拶をしに行きました。(それこそ冒険でした。)2006年、3回目のアコンカグアへは妻となった彼女と一緒に行ったのです。それが、新婚旅行でした。そうして、私が40歳の秋に、私たちは子どもを授かったのでした。

 臨時的任用時代 さて、マッキンリーから帰った頃に、私のもとへ東京都の臨時的任用教職員(いわゆる産休代替教員)の選考結果と名簿登載通知が届きました。4月に、作文の提出と面接の試験とを受けていたのです。こうして、臨時的任用教員の仕事が06年9月からスタートしました。最初の学校は、分教室という、病院内に設置された学校でした。それから、知的障害部門の特別支援学校で3年半、肢体不自由部門の特別支援学校で3年、少し間があって、普通科の高校の勤務が2校目というのが、今のこの学校です。臨時的任用で5校、気が付くともう10年になりました。臨時的任用が上手く繋がらなかった時期には、私立の駒場学園というところで1学期の半分くらい、仕事をさせてもらいました。講師時代であちこち13校、私立高校も(駒女と駒場学園と)2校で教壇に立ったわけですが、…もうそろそろいいや、一つにしようよ、というのが今の思いです。この4月新年度からまた新しい学校へ異動しますが、年が替われば来年は1月に私は50歳になります。そこで思うのは、こんなことです。 どうする、俺! ここで、夢を語っていいのなら、本当は、小さな学校でのんびり国語の授業をしていたいのです。夢を語っていいのなら、アメリカにあるアパラチアン・トレイルというロング・トレイルを何ヶ月もかけて歩いてみたいのです。夢を語っていいのなら、いつかは海を旅してみたいのです。…どうする、俺!

 私の40代は、子どもの成長を見つめつつ経過した日々でもありました。なので、個人的な冒険も山登りも、すっかり封印してしまったかのようです。きっと、50代も、子どもと歩みを合わせながら、自由気ままなことは控えめに生活していくのでしょう。親ですから。あるいは、今の世界の状況を見廻してみると、自由気ままな旅ができたのは、20代、30代の頃で終わってしまったのかもしれません。時々思うんです、私たちはどこへ行くのか、と。

 50代の私が、どんなふうに生きていくのか、今は見当がつきません。そんな大人って、なかなかいませんよね。ただ、今回、しくじり先生として、失敗体験をまとめてみたつもりなのですが、こうして昔の自分を振り返ってみると、わりと楽しかったなって、思えてくるんです。そして、これからも、何か楽しいことがあるんじゃないかなって、なんの根拠もなく思うんです。若い頃、私は冒険家になりたいと思っていたかもしれません。振り返ると、人生がちょっと冒険っぽくなっていますね。たぶん、夢は、形を変えて育つものなのです。

 植村直己さんの言葉を、この下手な文章の最後に載せておきたいと思います。植村さんには、自然を対象とした学校を作ってみたいという夢がありました。野外スクールのような、そう、冒険学校のようなものです。ミネソタにある野外学校で、植村さんは生徒と丸太小屋を建てたり、犬ぞりを走らせたりもして、いつかは自分の学校を…という思いを強くしたとかいうことです。その野外学校を離れる前の晩に、そこの生徒達に植村さんが語ったとされるのが、以下の言葉です。植村さんはミネソタを発つとアラスカのマッキンリーに向かい、帰らぬ人となったのでした。

 君たちに僕の考えを話そう。僕らが子供のときに、目に映る世界は新鮮で、すべてが新しかった。やりたいことはなんでもできた。そうだ。医者になりたいと思えば医者になれたし、登山家になりたければ登山家になれた。船乗りにだってなれた。なんにでもなれることができるんだ。ところが年をとってくると疲れてくる。人々はあきらめ、みんな落ち着いてしまう。世界の美しさを見ようとしなくなってしまう。大部分の人たちが夢を失っていくんだよ。
 僕はいつまでも子供の心を失わずに、この世界を生きようとしてきた。不思議なもの、すべての美しいものを見るために。子供の純粋な魂を持ち続けることが大切なんだ。いいかい、君たちはやろうと思えばなんでもできるんだ。僕と別れたあとも、そのことを思い出してほしい。

|

« 国際女性デー | トップページ | エヴェレスト 神々の山嶺 »

なめとこ山通信」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29037/63402768

この記事へのトラックバック一覧です: しくじり先生:

« 国際女性デー | トップページ | エヴェレスト 神々の山嶺 »