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2015.03.11

暴力はどこからきたか

 なめとこ山通信 41

  皆さん、こんにちは。1月は行く、2月は逃げる、などと言われるとおり、本当になんだかあっと言う間に、暦はもう3月です。3月も、去るようにして過ぎてしまえば、次は気持ちのいい春を迎えられると信じて、年度末の煩わしい仕事を、もう一踏ん張り、頑張りましょう。
 さて、今回お話しする内容は、少々堅苦しいものになるかもしれません。それは、先月2月の出来事の中で、私が、何でこんなことになったのだろうと考えて考えて、けれど上手く答えが出せずにいたものです。そして、やっぱりここでも話題にしたい、皆さんはどんなことを感じましたかと、うかがいたいと思ったことです。

 2月1日、ジャーナリストの後藤健二さんが、過激派組織イスラム国(その後、彼らは「国」と名乗っているが認められないとして、単にISとか、ISILと呼び慣わされているので、ここでも以下、ISとします。)によって殺害されたとみられる動画が、インターネット上に公開されるという、ショッキングな出来事がありました。何の罪もない無抵抗な人を殺害する場面を公開するという事態の残忍さに、憤りを覚えましたし、いったいどんな感情でいれば、このようなことが出来るのかと、気持ちの混乱を禁じ得ませんでした。ISはテロ集団とも言われますが、こんなのはテロでさえないと私は思いました。そこにあるのはただ、暴力だけだと。そして、人間の性は悪なのではないかと、そんなことも思いました。人間はただ弱くて脆いだけの生き物で、そこに正しい教育が行われなければ、人は暴力にまみれてしまうのだと私は思ったのでした。
 学校で、「後藤さんのニュースに関して、家族で話題にしたりすることはあるの?」というようなことを、教えている生徒に聞いてみました。私の勤めている高校に限ってなのか、生徒の反応は芳しくなく、今の若者たちは、他人のことにはあまり興味関心がないのかなと思ってしまいました。でも、ISが今後、日本人も標的にするとはっきり意思表示をした以上、それは私たちの問題であるはずです。私は日本人として、あるいは高校生を教える教師として、何を発信すべきだろうかと考えました。そうしてだんだん、なぜ後藤さんは殺されたのだろうかと考えるようになったのでした。なぜ後藤さんは殺されたのだろうか・・・・そこからさらに、なぜ後藤さんはシリアへ行ったのかという問と、何が後藤さんを殺したのかという問とが生まれ、2月中、私は悶々として、それらの問への答えを見つけようとしていたのでした。

 シリアのアレッポという街をご存知でしょうか。そこがどんな街なのか、私も知りません。きっともう、行く機会など私にはないでしょう。ただ、私の知人に、「アレッポという街は、本当に素敵な街なんですよ。」と語ってくれた人がいました。その人がバックパッカーとしてアレッポを訪れたのは、もう何十年も前のことではありますが、自由な旅の日程の中でその街を訪ね、遺跡や美しいモスクを見て、素敵なカフェでのんびりと過ごしてきたというのです。しかし今、私たちがニュース映像で知るアレッポの街は、シリア内戦によって瓦礫の街に変わり果てたアレッポなのです。
 後藤さんは、その様なシリアの現状を、自分の目で見たかったのだと思います。イラクでも、シリアでも、そこで何が起きているのかを知りたかった。そして、そのことを正しく伝えたかった。なぜなら後藤さんは、ジャーナリストでしたから。「取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人の愚かさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸が締め付けられる。声に出して、自分に言い聞かせないとやってられない。」という言葉が、後藤さんのツイッターに残されています。
 ところで、先日読んだ内田樹という人の文章(「戦争論の構造」)の中で、内田氏は、加藤典洋の『敗戦後論』の言葉を引きつつ、次のように論じています。

そもそも「無意味な死を、いかなる正当化し有意味化する言説にも回収させず、『無意味なもの』として語り抜くこと」こそは、おそらく文学の本来的な使命の一つなのである。

 ここで内田氏は、大岡昇平の『レイテ戦記』、ノモンハン事件をリサーチして書かれた村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』、ベトナム戦争中のある若い兵士たちのなまなましい死に方を淡々と描いたティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』について言及しているのですが、例えばジャーナリストとしての後藤さんの姿勢もまた、その様な文学者の態度に等しいものだったのではないかと、私には思えてきたのでした。
 確かに、今回の後藤さんの行動は軽率だったと非難する声はあります。政府も、数回にわたり、危険地域に渡航しないようにと勧告をしたのだと言っています。後藤さんは自己責任で、ただ湯川さんを助けに行って失敗し、その結果として日本人やヨルダン人に次なる危険が及ぶ可能性が生まれたのだから、これはたいへん迷惑な話だ、とする論調もあります。私が目にしたものの中には、後藤さんの生死がまだ定かではなかった時に、「不謹慎ではありますが、後藤さんに話すことが出来たら いっそ 自決してほしいと 言います。私が 彼の母親だったら そう 言います。」というコメントを出した芸能人のブログがありました。そしてその言葉には、数千の無言の「いいね」が付いていたのです。日本の社会とは、そういうものかもしれません。それは、自分たちを守るという意味で、頑なに保守的な姿です。一方で、後藤さんの死後、「I AM KENJI」のプラカードをアピールする人達もいて、後藤さんの行動に共感する人達がいるわけなのですが、日本にいてのアピールでは、本来の「I am Spartacus.」の意味を考えると、なんだかゆるいなぁと、日本はやっぱり平和な(平和ボケな)国なんだなと、感じてしまうのでした。
 後藤さんの死後、週刊誌に後藤さんのお兄さんの次のようなコメントが載りました。「非常に残念でなりません。本当に悔しい思いでいっぱいです。できることならば、国民の皆様に対して、健二本人の言葉で、きちんと謝罪とお礼を申し上げさせたかったです・・・・。健二へ。生きて帰ってきたら、もう一度お前と酒を飲みたかった。本当にバカ野郎だ。でも、最後までよく頑張った。静かに休んでくれ・・・・。」朝のNHKのニュース番組の中では、後藤さんとも付き合いがあったという解説委員の柳澤秀夫さんが、次のようなコメントをしていました。私もそれに近いことを感じていましたので、長くなりますが一部言葉を換えて、ここに載せてみたいと思います。

ニュースではテロ対策とか過激派対策とか、あるいは日本人をどうやって守ればいいかが声高に議論され始めているんですが、ここで一番、僕らが考えなくてはいけないことというのは、後藤健二さんが何を伝えようとしていたのか、ということです。戦争になったり、紛争が起きると弱い立場の人がそれに巻き込まれてつらい思いをするということを、彼は一生懸命に伝えようとしていたのではないでしょうか。それを考えることが、ある意味で、こういった事件を今後、繰り返さないための糸口となるかもしれないのです。
我々一人ひとりに出来ることというのはものすごく限界があるんですけれど、この機会に、そういうことを真剣に考えてみてもいいのではないでしょうか。それが、後藤さんが一番、望んでいることではないでしょうか。

 さて、今回の湯川さん、後藤さんの一連の出来事によって、ジャーナリストでさえもなかなか紛争地域に入ることは難しくなった、というのは事実です。まして、普通に生活している私たちが、今、世界でどんなことが起きているのかを見てみたい!と思っても、まず無理です。でも、少し前までは、世界はこんなではなかったはずなのです。何が、こんな世界を生み出しているのでしょうか。何が、後藤さんを殺したのでしょうか。その答えは、「ISだ」とするのは簡単です。しかし、あのような殺人集団が生まれた背景には、何があるのでしょうか。いったい、あのような暴力はどこから生まれたのでしょうか。
 ISの中心人物とされる男は、イラク戦争当時にアメリカ軍が囚人として拘束していた、イラクのバース党党員です。彼はその収容所で、イスラム過激派や旧フセイン軍軍人たちと交流し、収容所はさながら、過激派養成学校であったと言います。米軍のイラク撤退後にイラク政府が囚人を釈放すると、アメリカへの憎悪をたぎらせた養成学校卒業生が、野に放たれたというわけです。思い返せばあの、オサマ・ビン・ラディンのアルカイダも、ソ連のアフガニスタン侵攻に対抗するためにアメリカ(のCIA)が育て上げた組織とされます。暴力は、どこから生まれたのか。誰が生み出したのか。・・・・。
 アフガニスタンにターリバーン政権が出来た後の2001年、ターリバーンは、イスラムの偶像崇拝禁止に反しているとして、世界遺産であるバーミヤンの石仏を破壊しました。その時、イラン人の映画監督モフセン・マフマバルは、このような発言をします。

私は、あの仏像は誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は恥のために倒れたのだ。アフガニスタンに対する世界の無知の恥からだ。仏像の偉大さなど何の足しにもならないと知って倒れたのだ。

 仏像を破壊したのはターリバーンではなく、アルカイダを育てたのはCIAではなく、ISを産んだのは米軍の収容所ではなく、それは、私たちの無知、無関心によるものなのかもしれません。

 もう一つ文章を引用させてください。これは、私が学校で、私立大学の入試問題の過去問集をパラパラと見ていた時に見つけました。こんな文章で入学試験を作るなんて、日本の教育者も、まだ捨てたもんじゃないなと思いました。それは、岡真理という人の文章で、2001年9月11日の出来事を受けて10月29日の「朝日新聞」に載ったのが初出であるようです。全文は、岩波新書の『テロ後 世界はどう変わったか』(藤原帰一編)で読むことが出来ます。岡さんは、世界貿易センタービルの事件も、不条理で、「世界の人々に共感を呼ぶ出来事」だとする一方で、四半世紀前にレバノンのタッル・ザアタルで4000人のパレスチナ人が殺されたという出来事や、その他、各地の難民キャンプで起きた虐殺について、「人間の歴史に長く記憶される悲劇として認識されてはいない」として、「悼まれる死と悼まれることのない死」があるのはなぜなのだろうと、問題を提起します。

 自らを「文明」と呼び、「自由」と「民主主義」を詐称、専有し、「彼ら」を「ならず者」「テロリスト」「原理主義者」「非文明」と呼び、「われわれ」と「彼ら」のあいだに「普遍」と「特殊」の線引きを行うこと、それは同一の暴力的な構造に由来することなのだ。
 そして、そうである限り、すなわち世界の記憶のエコノミーにおけるこの圧倒的な不均衡、それによってもたらされる暴力が続く限り、おそらくテロはなくならない。

 経済的に豊かな先進国とされる国からも、ISに加わりたいからと、紛争地域へ潜入しようとする若者がいます。そのような不満を抱えた若者がいるという状況は、この日本でも同様です。一括りにするのは少々危険ですが、先日の川崎での中学生殺人事件を思うと、暴力への歯止めをどうしたらいいのか、答えはあるのかと、気持ちが塞いでしまいそうになります。しかし答えはあると思います。それはやはり、当たり前ですが教育なのだと思うのです。突き放すのではなく、目線を同じにしたところからの、会話、と言いますか。そしてそれは、紛争地域への対応の仕方も同じだと思います。目に見えない高みから敵を爆撃するのではなく、あるいは高い空から支援物資を落とすのではなく、足で出かけて、荒廃した土地に学校を建てて、子ども達を教育する、それが日本の私たちに出来ること、私たちにしか出来ないことなのではないでしょうか。とりとめのない結論になってしまいましたが、私はまず、自分の身近なところから、大切なものを育てていきたいと思います。

 最後になりましたが、亡くなった後藤健二さんのご冥福を、心からお祈りいたします。

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